闇の先に潜むもの



File 02

だいたい今から1800年前の中国は、三国志の時代でした。

その時代の人で呂布奉先という武人がいました。彼は性格に難があり、将としてはいまいちでしたが、個人の武力としては最強の戦士でした。

呂布は身長9尺の長身でした。1尺が約30cmなので、2m70cmです。故アンドレ・ザ・ジャイアントも18文人間エグゾセのリングシューズを脱ぎ捨て裸足で逃げ出す大巨人かと思いきや、当時の中国の1尺は約23cmなので実は2m7cmです。故ジャイアント馬場より少し小さいくらいですね。

そんな呂布の愛馬は赤兎馬って名前の立派な馬でした。赤毛の大きな馬体でまるでウサギのように跳ぶ姿からこの名前がつけられました。
しかも、この赤兎馬は1日に千里を駆けるといわれました。1里は約4kmなので4000kmを一日に駆けるかと思いきや、当時の中国の1里は約415mなので約415kmです。
この呂布と赤兎馬の人馬一体っぷりは見事なもので『人中呂布、馬中の赤兎』といわれました。

当時、軍隊が1日に陣形を保ったまま移動できる距離を1舎と言いました。1舎が30里。約12kmです。これは歩兵の速度にあわせているものだと思われます。
だいたい人の歩くスピードが時速4km程度です。これだと単純に1日24時間のうちの3時間進んで12kmの計算になります。陣形を保ったままで武器を持ち、甲冑をつけているのでもう少しスピードが落ちたとしても、4時間から5時間程度の行軍だったと思われます。

赤兎馬は1日24時間走ったとしたら時速17km強。
しかし、いくら赤兎馬だとしても24時間走るコトは不可能でしょう。それに馬上の呂布も体がもちません。
普通の兵士が1日に4時間から5時間移動するなら、呂布と赤兎馬ならその倍の10時間程度なら移動したのではないでしょうか?
そうなれば赤兎馬の時速は40km強です。街を走る自動車並みのスピードです。
ちなみに、ディープインパクトの最高速度が時速70km弱です。
マラソンの状態で40km強のスピードが出る赤兎馬がダッシュした場合のスピードは計り知れません。


さて、呂布の死後、赤兎馬は一時曹操なる人が所有しますが、関羽雲長なる人のに贈られ、関羽の愛馬になります。
この関羽も当時の中国で最強と呼ばれていました。

関羽には周倉という家来がいました。周倉は元々山賊のようなものだったのですが、関羽の武に惚れ、関羽の家来になりました。

そんな関羽と周倉にこんなエピソードがあります。

関羽の赤兎馬は1日に千里を走ります。周倉は毎日、関羽と赤兎馬を走って追いかけます。
関羽は周倉をかわいそうに思い、赤兎馬クラスの馬を中国全土から探しました。しかし、そんな強力なポテンシャルをもつ馬はなかなかいません。やっと見つかったのは1日に900里を走る馬でした。
早速、関羽はその馬を買い、周倉に与えました。周倉はとても喜びました。
が、赤兎馬は1日に千里、周倉の馬は1日900里。毎日周倉は100里関羽に差をつけられてしまいます。
周倉は悩みました。
走って追いかけてた頃は、殿に追いついていたのに…
馬に乗らずにまた、走ろうかとも思いましたが、殿が中国全土を探して折角買ってくれた馬を粗末にするコトも出来ない…
しかし、このままでは、殿の護衛も満足に出来ない…

そこで周倉は、殿が買ってくれた馬を背負い走りました。


このエピソードになんの意味があるのかは、オレにはわかりません。
周倉の忠義の心を感じるべきなのか、笑えばいいのかもわかりません。
事実、周倉は実在の人物ではありません。

しかも、この話には後日談があり、周倉がなぜあんなに早く走れるかを、調査していた敵軍の部将が、周倉の寝室に忍び込みました。周倉の足を見てみると足の裏に毛が1本生えていました。なんとなくその毛を抜いたら、次の日から周倉は走れなくなったそうです。

三国志と呼ばれる本は日本では、二種類あります。『三国志正史』と『三国志演義』のふたつ。
正史と言っても、正しい歴史って意味ではなく、朝廷が公認した歴史書って意味である。
これは歴史書なのでドラマチックな展開もなく、簡潔に淡々と書かれています。
俗に日本で三国志って呼ばれるモノは三国志演義で、14世紀の中期に羅漢中と言う人が書いた、三国志正史、民間の伝承、講談等を元に書かれた娯楽歴史小説です。娯楽歴史小説なので史実とは違う部分、実在はしない人物、時間、地理的な矛盾等があります。

この娯楽歴史小説ってのが曲者で、ほとんどファンタジーである。
赤兎馬の件は、多分三国志の時代から1日に千里を駆けると言われていただろう。しかし、これは赤兎馬の他を寄せ付けないスピードを揶揄したものだったと憶測するのは簡単だ。
だが、この赤兎馬は丈夫だった。呂布が赤兎馬を手にしたのが西暦190年ごろ。呂布が死んだのが198年。その後、呂布を殺した曹操の手に渡り、関羽が曹操から譲られたのが200年。関羽が戦死したのが、219年。関羽を捕縛した馬忠なる人がご褒美に赤兎馬をもらったが、エサを食べずに死んでしまったそうだ。この時点で赤兎馬は29年以上生きていたコトになる。日本のサラブレッドの長寿記録が35年だそうが、関羽が死んだ時点でも第一線だったコトを考えると、丈夫な上に長生きだったと思われる。
周倉の件は完全なるSFだ。馬を背負って1日に千里を走るなんて不可能だ。
諸葛亮の南蛮遠征なんかはいい例だ。
象や虎、豹、毒蛇なんかをあやつり風雨を起こす木鹿大王。
弓の効かない鎧を着けた藤甲兵を率いる兀突骨。この兀突骨なんか身長が1丈2尺。1丈ってのは10尺だから276cm。全身が鱗に覆われていて弓も刀も効かない。好物は生きたままの蛇や獣を丸かじり。そんな兀突骨は諸葛亮の仕掛けた地雷で爆死!
コイツ等と戦った諸葛亮も、祈祷なんかで天候を変えるスキルを持っている。

完全なファンタジーだ。


さて、鬼の正体の話なのだが、なぜか三国志の話をしている。
実は鬼についてオレはなんにも知らない。知らないのをいいことに、自分勝手な判断のみで研究していく予定です。
その為の、切り口として自分の得意分野に照らし合わせていくことから始めようって魂胆なのだ。

三国志の話に戻って…
関羽は死後、民間信仰の神様になりました。関帝と呼ばれる商売の神様になったのです。この関帝を奉る関帝廟は中国だけではなく、世界中のチャイナタウンにあります。
関帝廟には関羽の像を中心に3体の像があります。周倉と関羽の養子の関平の像です。この関平も実在の人物ではなく、三国志演義のみに存在する人です。
おそらく羅漢中は上に挙げた民間の伝承から、周倉、関平を三国志演義に登場させたのだろう。そこまでは簡単に答えがでる。
しかしなぜ、民間の伝承では、実在しなかった人物を神として扱っているのか?
周倉と関平はいなかった。だけど、彼ら2人のエピソードは数多くある。なぜか?

オレの判断でしかないのだが、この2人は、歴史に名前が残らなかった人々の集合体なのではないかと思う。
関羽の部隊にいた兵。
関羽の身の回りの世話をしていた使用人。
関羽が侠者だった頃の仲間。
関羽が治めた荊州の民。
その他、たくさんの人々の小さなエピソードの集合体が周倉と関平を生み、関羽と共に神になったのではないか?
そして、民間の伝承を参考にした、羅漢中の三国志演義によってキャラクターが出来上がったのではないか?

ここからがミソである。
三国志はゲームやマンガなんかの題材によく使われている。
そこに登場する周倉や関平を、誰も実在しない架空の人物とは思っていないだろう。
知らない人には実在する歴史上の人物だ。
三国無双なんてゲームがある。諸葛亮はビームを出すは、戦に行く訳のないお姫様はボコスカ殴りあうは、陣形、戦術なんか関係なしで将が単騎で走りまわるのだ。
三国志の名を冠しているが、三国志とはまったくの別モノだ。
しかし、三国志をこのゲームでしか知らない人には、これが三国志の世界だ。

虚は実を生み、実は虚を生みだす。

大嘘を吹き続け、最弱の放浪軍を率いながらも民意を手に入れ、漢中王を僭称した劉備。
大嘘で得た民意を武器に、死後1200年を経て三国志演義の主人公に登りつめる。
単純明快な劉備=善、曹操=悪の図式を大嘘で手に入れたのだ。

虚が実を生み、実が虚を生み出したのだ。


ひとつの事象でも多面的に見ないと、本当の答えはでない。
しかし、一人の人間、個人が多面的にモノを捉えるのは不可能に近い。
その為、人は本当は出ていない答えをどこかで折り合いをつけ、無理に答えを出す。
現代では、テレビや新聞などのマスコミが、本当は出てない答えを出してくれる(だが、そのマスコミのおかげで民意が失われているコトも確か)。

マスコミのない時代は、みんなが一番わかりやすいトコロでぶった切った虚が、実になったのではないか?
その一番わかりやすい虚=鬼だったのではないか?

昔の日本には鬼がいた。
赤いのとか、青いのとかではないが、鬼は確実にいた。


虚は鬼を生み、実は鬼を生みだす。

  


マザー・ファッカー研究所に戻る
Topに戻る