これが筋肉少女帯の歴史だ!
1979年4月 中野区第4中学校に入学した大槻。 前の席に座り机にバットマンの絵を書いていた天然パーマの少年に声を掛けた。 『君はバットマンが好きなのかい?』 その天然パーマの少年こそ、のちの『筋肉少女帯』のベースマン『内田雄一郎』であった。 話をすると小学校は別々だが家はすぐ近くとわかったので、大槻は先日あった近所の火事の話をし始めた。 『このあいだの火事見た?煙なんかガンガン出ちゃって、あれじゃ中にいた人マルコゲだね♪』 するとさっきまで笑顔だった内田の顔が急に曇り、静かにこう言った… 『あれは、僕の家だよ〜〜〜〜〜』 これが有名な『あれは 僕の家だよ〜〜〜〜〜』事件である。 1980年2月 再建された内田家で行われた内田の誕生日パーティーに呼ばれた大槻。 パーティーのご馳走は赤飯とコーラだけだったと言うエピソードはあまりにも有名。 パーティーの席で内田が弾くエレクトーンに合わせて大槻ほか数人の友人達が、青竹踏みや空き缶などを叩いて歌を歌ったのがキッカケとなり、『ザ・ドテチンズ』を結成。 ドテチンとは『はじめ人間ギャートルズ』に出てくるキャラクターで、当時の大槻のあだ名であった。 2回ほど近所の公民館でライブをおこなったが彼等の中学校卒業とともに自然消滅。 そのライブの音源はソノシートで残っているらしい。 1982年2月 別々の高校に通っていた大槻と内田だったがまたバンドをやろうという話になり、結成したバンドが『筋肉少年少女隊』である。 当初は『筋肉少年隊』と名乗っていたがジャニーズからのクレームに怯え『筋肉少年少女隊』にしたらしい。 『筋肉少年隊』のバンド名の由来はなんだかホモっぽいからという単純なものでだった。 内田が通っていた高校の先輩ケラ(現ケラーノ・サンドロビッチ 劇団ナイロン100℃主催)が『ザ・ドテチンズ』のライブのテープを聴き、一緒にライブをやらないか?と誘われる。 当時ケラは『伝染病』というバンドに在籍していた。当時の『伝染病』のギタリスト本城聡章はのちに『筋肉少女帯』のギタリストになる男である。 同82年4月 ケラのバンド『伝染病』の解散、そして新バンド『有頂天』の結成ライブに『筋肉少年少女隊』が初参加。 当初は大槻がベースを弾きながら歌い、内田がキーボードだったが、大槻が歌いながらベースを弾けないという致命的な欠点が発覚したため、大槻はボーカルに専念、内田がベースという形になった。 1983年 ケラがインディーズレーベル『ナゴムレコード』を立ち上げる。 その『ナゴムレコード』に『筋肉少女帯』(この頃名前を改めたらしい)も参加する。 『ナゴムレコード』には、 『たま』 『カステラ』 『ばちかぶり』 『人生(後に電気グルーヴ)』 『死ね死ね団』 『泯比沙子&クリナメン』 『痛郎』 『木魚』 『ロシアバレエ団』 『ミンカ・パノピカ』 『グレイトリッチーズ』 『東京正義乃士』 『クララサーカス』 なども参加していた。 ちなみに『ばちかぶり』のボーカリストは『田口トモロウ』である。 現在では俳優、プロジェクトXのナレーションとして活躍してるが、当時の彼はステージ上でゲロを吐くはうんこするはのほとんど基地外であった。 同83年 大槻・内田・ケラの3人で『空手バカボン』というユニットを結成。 大槻・ケラが歌とコントを担当、内田はギターと打ち込みを担当するテクノバンドであった。 今聴くと早すぎたラップユニットの様に聴こえる。 『ナゴムレコード』より『空手バカボン』として、 『バカボンのススメ』 『孤島の檻』 『バカボンの頭脳改革』 の3枚のレコードをリリースしている。 ほとんどの作詞を大槻、作曲を内田がおこなっており『筋肉少女帯』の原曲が多数含まれている。 1984年 『筋肉少女帯』名義での初のレコードはオムニバスLPの『あつまり』であった。 『オレンジペニス』 『肉の王者』 『釈迦』 の3曲を『筋肉少女帯』が収録。 1985年 大槻、内田以外のメンバーは入れ替わりが激しかった。 本城が参加していた時期もあった。 本城の紹介で参加したのが『東京正義乃士』のピアニスト『三柴江戸蔵』であった。 同85年 初のソロレコード『とろろの脳髄伝説』をリリース。 その頃より『インディーズブーム』が押し寄せ女の子のファンが増え始め、『筋肉少女帯』のライブ動員数も増え始めた。 1986年 大槻はデザインの専門学校に進むが1年で中退。 内田も大学に入学するが1年で中退。 1987年 『有頂天』メジャーデビュー。 メジャーレーベル『アポロン』のオムニバスアルバムに『有頂天』とともに『筋肉少女帯』も参加。 『23の瞳』を収録。 『ナゴムレーベル』より『ノゾミ・カナエ・タマエ』リリース。 収録曲は4曲。 そして、遂にシングル『高木ブー伝説』をリリース。 その時のギタリストは『レベッカ』の『友森昭一』であった。 『高木ブー伝説』は話題となりTVなどでも紹介された。 太田プロを名乗るモノから『ナゴムレーベル』に電話があり、訴えるとのクレームもあった。 慌てて回収された『高木ブー伝説』のシングルは4000枚に及んだらしい。 しかし、後にクレームの電話はイタズラだったと判明。 1988年 VAPから声が掛かり『筋肉少女帯』遂にメジャーデビューが決定。 大槻としては学校をやめ親に迷惑を掛けていたので、いい就職先が見つかったくらいの実感しかなかったらしい。 『ジュン・スカイ・ウォーカーズ』とともに『TOY'S FACTORY』からデビュー。 1988年6月21日 アルバム『仏陀L』 シングル『釈迦』を発売 デビュー当時のメンバーは ボーカル 大槻 モヨコ ケンヂ ベース 内田 雄一郎 ピアノ 三柴 江戸蔵 ギター 関口 博史 ドラム みのすけ しかし、デビュー後まもなくにはドラムのみのすけがケラの劇団に専念するという理由により脱退。 続いて、ギターの関口も脱退する。 三柴の紹介で代わりに入ったのが『高木ブー伝説』でゲストとしてパーカッションをやっていた『太田明』であった。 ギタリストはなかなか固定せずに2回代わった。 そのうちの1人はあだ名が『カトチャ』と言う男で、少々頭のおかしい男だったらしい。 『タコモーは泣かないに〜』などの名言を残しているが、太田に虐められ『筋肉少女帯』から去った。 太田はその後『あんなヘタクソいらない』とコメントしている。 同88年9月 ギタリストは決まらないので暫定的にサポートメンバーとして『ジェットフィンガー』こと『横関敦』が参加する。 同88年10月 ニッポン放送の『オールナイトニッポン』で大槻がパーソナリティーを勤める。 同88年12月21日 2枚目のアルバム『SISTER STRAWBERRY』発売。 横関は一時的なサポートメンバーであった為、新しいギタリストを募集。 そのオーディションに参加していたのが『橘高文彦』であった。 橘高はかつて、ヤマハ渋谷店が開催する『中高生バンド合戦』でメタルバンド『スリージー・ラスター』のメンバーで、毎回『ベストギタリスト賞』を貰い18歳でデビューしその際にバンド名を『アルージュ』と変えていたが、『アルージュ』が解散した為、オーディションに参加していたのだった。 しかし、そのオーディションの最中に三柴が脱退を表明。 『俺はやめるけど、橘高君がいいんじゃない?』と、橘高をプッシュした。 ピアノが居なくなる為に音楽的な方向転換の必要があったバンドは、もう1人ギタリストを入れることとなり、かつてから親交があった元『有頂天』のギタリスト本城に声を掛けた。 1989年2月7日 日本青年館でのライブを最後に三柴が脱退。 同89年2月22日 オールナイトニッポンで本城・橘高の加入発表。 同89年4月 『まんが道』という名義で『ボヨヨンロック』発売。 オリコンチャート8位のヒット。 『ボヨヨンロック』とはオールナイトニッポンの1コーナーから生まれた曲。 ユニット名は『まんが道』だったが、実は新メンバーでの『筋肉少女帯』最初のレコーディングだった。 レコーディングは『昭和天皇』逝去の日に行われた。 同89年7月5日 3枚目のアルバム『猫のてぶくろ』発売。 新メンバーでの初のアルバムである。 ちなみにこの日はデス市長アルバート12歳の誕生日であった。 このアルバムの『日本印度化計画』はシングルカットされていないのもかかわらず話題となる。 関西ローカルではあるがCMソングとして使われた。 しかし、 『俺にカレーをくわせろ』を、『俺にチェリオをのませろ』と歌わされた大槻は実際の所、心中穏やかではなかったらしい。 ツアーでは初の『渋谷公会堂』でのワンマンを3回行った。 同89年10月 『筋少の深夜改造計画』が日本テレビでスタート。 MCは『久本雅美』だった。 最初はメンバー全員出演していたが、いつの間にか大槻のみの出演となり半年ほどで終了。 同89年11月 ニューアルバムのレコーディング開始。 同89年12月5日 シングル『元祖高木ブー伝説』発売。 オリコンチャート9位のヒット。 1990年2月5日 4枚目のアルバム『サーカス団パノラマ島へ帰る』発売。 このアルバムから橘高も作曲するようになる。 全国ツアーは2月に武道館、6月の東京厚生年金会館まで続いた。 2月の武道館でのライブはビデオ化された。 同90年11月21日 5枚目のアルバム『月光虫』発売。 12月からツアーに入り、翌年3月の日本武道館まで続いた。 1991年5〜6月 大槻、インドとタイへ1人旅。 同91年7月5日 シングル『踊るダメ人間』発売。 ライブでは『ダメジャンプ』と呼ばれる『Xジャンプ』のパクリアクションが行われていた。 大槻が始めて『ダメ人間』という言葉を使ったと言っていたが、実は10年以上前にマンガ家の『手塚治虫』が使っていたコトが最近判明。 ちなみにこの日はデス市長アルバート14歳の誕生日であった。この頃はまだそれほどダメ人間ではなかったようだ。 同91年7月21日 6枚目のアルバム『断罪!断罪!また断罪!!』発売。 同91年8月5日 ビデオクリップ集『3年殺し』発売。 ジャケットは『青柳館長』であった。 同年9〜11月 全国ツアー。 同91年12月 結成10周年記念記者会見を行う。 1992年1月〜3月 結成10周年記念イベント『筋少ちゃん祭り』開催。 月に1回、計3回行われた。 『筋少ちゃん祭り』はその後、毎年1回行われるイベントとなる。 同92年2月21日 シングル『氷の世界』発売。 井上陽水のカバー曲である。 この頃『オーケン辻説法〜筋少10年を語る講演会』と言うタイトルで全国数箇所でトークイベントを行う。 確か4月、大槻さんとオレのファーストコンタクトがこのトークイベントであった。 しかし、当時まだ筋少の事をよく解っていなかったオレはあまりその時のことが記憶にない。 女性ファンから『大槻さんは女子高生の彼女がいるってウワサですけど、本当ですか?』と聞かれた大槻さんが困っていた事だけは覚えている。 同92年3月21日 初のベストアルバム『筋少の大車輪』発売。 同92年4月4日 日比谷野外音楽堂で『筋肉少女帯活動十周年リサイタル、ザ・ばんど道』が行われる。 MCで大槻は『あれは僕の家だよ〜事件』から数えて10年だと言っていたが計算が合わない。 『筋肉少年少女隊』結成から10年である。 同92年5月21日 7枚目のアルバム『エリーゼのために』発売。 この頃から大槻の作詞のスタイルが変わってきたような気がする。 同92年6月21日 シングル『バトル野朗〜100万人の兄貴〜』発売。 同92年7月5日 ビデオ『筋少祭だ!90分』発売。 日比谷野外音楽堂での『筋肉少女帯活動十周年リサイタル ザ・ばんど道』の模様が納められている。 ちなみにこの日はデス市長アルバートの15歳の誕生日であった。 同92年9月 所属事務所をやめる。 更に『TOY'S FACTORY』との契約も切れるが、もう1枚だけアルバムを作る契約を結ぶ。 同92年9月30日〜10月4日 テレビの企画で『まんが道 故郷へ帰る』のタイトルで大槻と内田がセブ島へ旅行。 セブ島の市長にも挨拶をしに行った様子はセブ島の新聞にも乗ったが内容は『日本からバカがエルビスの格好でやってきた』という内容だった。 1993年 この頃大槻がテレビに出まくった時期である。 同93年3月21日 シングル『暴いておやりよドルバッキー』発売。 同93年4月25日 8枚目のアルバム『UFOと恋人』発売。 同93年5月21日 シングル『君よ!俺で変われ!』発売。 これを最後に『TOY'S FACTORY』との契約が切れる。 同93年6月頃 デス市長アルバート初めての『筋肉少女帯』ライブ。本城にピックを貰う。 同93年8月 MCAビクターへ移籍。 バンド存続の危機から復活。 同93年11月1日 ベストアルバム『筋少の大水銀』発売。 1994年1月25日 シングル『蜘蛛の糸』発売。 この曲で『ミュージックステーション』に出たのがおそらく『筋肉少女帯』としては最後。 同94年4月21日 9枚目のアルバム『レティクル座妄想』発売。 同94年5月21日 シングル『香菜、頭をよくしてあげよう』発売。 この曲で『ポップジャム』に出ていたので『蜘蛛の糸』で書いたのはオレの勘違い。 同94年夏頃 デス市長アルバート2回目の『筋肉少女帯』ライブ。 同94年10月 橘高ソロプロジェクト『ELPHORIA』でアルバム発売。 同94年11月23日 シングル『リルカの葬列』発売。 1995年 『筋肉少女帯』の活動は5月の筋少ちゃん祭りと8月のアコースティックライブくらい。 3月と8月に大槻がソロアルバムを2枚発表。 1996年3月6日 シングル『トゥルー・ロマンス』発売。 同96年3月23日 10枚目のアルバム『ステーシーの美術』発売。 その後マーキュリーMAへ移籍。 同96年11月25日 シングル『僕の歌を総て君にやる』発売。 同96年12月9日 11枚目のアルバム『キラキラと輝くもの』発売。 同96年12月18日 ベストアルバム『筋少MCAビクター在籍時BEST&CULT』発売。 レコード事務所を移籍するとベストアルバムが発売されるのは世の常。 1997年1月29日 シングル『小さな恋のメロディ』発売。 同97年4月30日 シングル『タチムカウ−狂い咲く人間の証明−』発売。 同97年9月3日 シングル『211B戦記』発売。 同97年10月15日 12枚目のアルバム『最後の聖戦』発売。 この『最後の聖戦』が実質最後のアルバムとなる。 1998年6月29日 10周年記念ベストアルバム『SAN FRANCISCO』発売。 唯一の新曲『サンフランシスコ10イヤー・アフター』が『筋肉少女帯』の最後にレコーディングされた曲である。 同98年7月31日 渋谷公会堂で10周年記念ライブ。 これが最後のライブとなる。 同年8月 『太田明』脱退。 続いて『橘高文彦』『大槻ケンヂ』脱退。 『内田雄一郎』が『筋肉少女帯』活動凍結を宣言。 しかし、2006年… |